人間を叩きのめす

おれがクソ人間どもを叩きのめすまでに日々思ったことや考えたことをダラダラと綴る程度のブログ

20160630 - スカラー三重積

 

2016年6月30日。

 

 今日で6月も終わりですね。焼けるように暑かったり蒸し暑かったり雨が降ったり本当嫌な季節ですね。日本人はこんなところにいるからすぐ自殺するんじゃないのか?北海道来いよ、おれの生まれ育った国だ。

 

 今日は雨の合間を見て銀行行ったりコンビニ行ったりしてた。暗くなってきてから図書館で線形代数の勉強していたんだけど、どう見てもスカラー三重積のところをベクトル三重積って書いてあってモヤモヤしてきて捗らなくなってきたから帰宅した。

 

 前の行で「スカラー三重積を~~と定義する」つってんのにいきなり次の行では「ベクトル三重積~~は~」つってるんだ、お前は3歩歩いたら忘れる鶏かよと思った。

 

 まあ気を取り直して勉強しよう。今夜一晩あれば線形代数は大丈夫かな、どうだろう。

ちなみに読んでいた本は『スバラシク実力がつくと評判の線形代数キャンパス・ゼミ改訂2』というやつです。基礎からぱら~~っと復習してる。

20160628-20160629 - 数学

 

2016年6月28日と29日。

 

 この二日間は大体同じようなことをしていた。

 28日は美味しいたい焼きを食べた以外は図書館で数学、微分方程式をひたすら解いていた。29日は特に何も食べずに図書館で実関数積分を複素積分を用いて解くやつをひたすらやっていた。

 

 1日25時間くらい勉強するために邪魔な物事を出来る限り排除していこうと考えたら、やっぱりTwitterとかを見ている時間は基本的に無駄になっちゃう気がしたから1ヶ月くらいやらないようにしようかなとかも考えていた。なんだか最近本当に集中力が持たないんだ。人のプレゼンを聞いている間にも別のことを考え出してしまうし、あまりにも思考が右に左に飛び回りすぎる。移動時間も極力減らしたいし本を沢山抱えて歩けばいいのかな。自衛隊よりも重装備になりそう。

 

 もう書くことなくなっちゃった、昨日は倫理観とか責任感とか宗教観についてTwitterでも少し言ったことを深く掘り下げようかとも思ったんだけど、やっぱり何を言っても他人の意識は変わらないというものもあるしやめておこう。

20160627 - 読書

 

2016年6月27日。

 

 今日は朝研究室に行ったがゼミなどの予定がなかったらしく時間が空いたため散歩をしたり日向ぼっこをしていた。あまりジメジメもしていなかったし非常に過ごしやすかった。

 今日読んだのは『機械にまかせる安全確認型システム~設計者のアカウンタビリティ~』という新書で、とにかく不要な横文字が多いだけでなく日本語も所々首を傾げざるを得ないような文体であるが、内容的には何か物を創る人間として知っておきたい知識が盛り込まれており、時間を費やして読んだ価値はあったと思う。

 大体の内容としてはあらゆる機械の使用を安全に行うための設計者が持つべき基本理念のようなものを語っていて、国際基準ではそれを基にしているのに、日本は製品に技術力は詰め込めても安全は使用者任せにしすぎで無責任だね、倫理なき国家だねという話になっている。あとこの倫理観についてキリスト教的な考え方などを持ち出してきて「おお、ここで宗教と科学が融合を見せるのか」と思ったりもした。

 中でも多数決回路について書かれていた部分で、自分は電子工作などをあまりしない性質の人間であるので、それが工作機械などの無慈悲で圧倒的な力から自分達の身を守っているという実態を知ることが出来、何のために学んだのか分からなかった知識が実体と繋がったと思う。もしかしたら初めて学んだ時も先生がどこに使われているのかを言っていたのかもしれないけれど、それにしても再確認できて良かった。知識を無駄にはしたくないから。

 

 勉強っていくら時間をかけてしても実際の現象や物体と結びつけることが出来ないとほとんど全く意味を為さないよね。文学とか社会学はまたちょっと違うのかもしれないけれど。

20160626 - 視界情報

 

2016年6月26日。

 

 今日は、今日はあまり何も出来ずに終わった…。やらなきゃいけないことがいくつかあってそれらに少しずつ手を出していたら一つも終わることなく全て中途半端な形で明日に持ち越される、一番嫌なパターンだ。

 

 しかし最近よく考えるのは物事を日付単位で区切ってやるのはどうかということ。1日単位で終わらないことだって沢山あるわけだし、今日はこれが片付いた/片付いていない、というよりはこの物事には何時間かかって何%片付いたと進行具合を表すバーが空中に現れて欲しい。

 コンタクトレンズとか眼鏡型の視覚拡張デバイスみたいなものはいつテクノロジーの本流として現れてくるんだろうか、もう小学生の頃からずっと待ってる。待ってても何も始まらない領域ではないと思っていたけどそういうのの研究者はあまり利点を見出せなかったのかな。ヘッドギアとかゴーグル型みたいに完全に視界を書き換えるVR技術じゃなくて視界情報に付け足すほうのARと言うべきか、そっちのほうが欲しい。

 視界の左端に天気情報が表示されたり右上には電子マネーのチャージ額、右下には直近の予定、中央は視界をより鮮明に、より遠くまで視認が可能になるエフェクトがかかっていたり、そういう処理されたデジタルな視界を楽しんでみたい。

 

 あと今日は『デストロ246』っていう漫画と『月刊少女野崎くん』という漫画を読んだりもした。どちらも面白くて好きな作品の一つです。今日はあまり書くこともないから、この辺で終わり。

20160625 - 三島事件

 

2016年6月25日。

 

 今日は沢山お出かけした。この間当選したプレモルを引き換えに行ったり漫画を買ったりバッティングセンターに行ったりシャンプーを買ったり。

 プレミアムモルツ、別にいらない…。一人きりで飲むお酒なんて、ねえ…

 

 あとはWikipedia三島事件を読んでいた。その中で引用されていた一つの文章と三島由紀夫ほどの人物の呼びかけでさえ社会変革には至らなかったことは自分の今後を見つめ直させる。

 ちなみに引用されていた文章というのは「かつて大衆の意識変革に成功した人はひとりもいない。アレキサンドロス大王も、ナポレオンも、仏陀も、イエスも、ソクラテスも、マルキオンも、その他ぼくの知るかぎりだれひとりとして、それには成功しなかった。人類の大多数は惰眠を貪っている。あらゆる歴史を通じて眠ってきたし、おそらく原子爆弾が人類を全滅させるときにもまだ眠ったままだろう。(中略)彼らを目ざめさせることはできない。大衆にむかって、知的に、平和的に、美しく生きよと命じても、無駄に終るだけだ。」というもの。

 これって呼びかけたりして意識を変えさせるんじゃなくて無理やりにでもそうするしかないような仕組みに変えて仕向けるしかないって事だよね。人類よ目を覚ませと呼びかけるのではなく、ぶん殴りまくって叩き起こすしかない。知的に、平和に、美しく生きなければ死んでしまうような社会。皆はそれをディストピアだと思うだろう。

 

 早く独裁者にでもなるしかねえな。

三島事件 - Wikipedia

20160624 - 梅雨・共感

 

2016年6月24日。

 

 今日は酷い雨だ。一日中頭が痛い。

 

 今日とあと土日で材料力学の復習をやり終えるつもりでいるんだけど、無謀が過ぎると言えるほど猛スピードだ。勉強以外のあれこれに足を取られてスケジュール管理がし切れていないせいでここまで酷くなるとは。不安しか感じない。

 

 Twitterには書ききれないだろうと思ってやめた、他人と共感が発生する時の条件についての自らの経験に基づく考察をここに記しておきます。(ここで言う共感とはある物事に対して他人と同じ感想を得るということではなくある瞬間において他人と思考が被るという意味合いを持っていると考えてください)

 まず何と言ってもその共感する概念を共有していること、これは非常に影響が大きい。Aさんがaという概念に思い至った時、Bさんもaに思い至るにはその概念を知っていなくてはならない。そうでなければ様々な思考回路をめぐってaに至る道筋を描きaを生み出さなくてはいけないから、それは瞬時に共感が起こるのを妨げる。

 そして次に同じ経験などによって思考回路が共通していること。これは先述の場合とは異なり同じdという概念は持っていなくともAさんもBさんもa→b→cという回路を持っていて、その当然の帰結としてc→dが導けるのであればdという概念を共有している必要はない。

 

 今までの経験したパターンから言うと圧倒的に後者の場合が多く、何か新しい物事を提案しようという時によく起こった。そして同じ学校に通い同じ授業を受け同じくらいの成績を取ってきた人なんかで起こる頻度が高かったように思える。

 あとは共感する対象がお互いにとって表面的か内面的(より自分の根幹に近い)かで起こりやすさが変わる。表面的というか短絡的、短期的と言ったほうがいいのかもしれないけど、人間と接しているとどうも思考が擦り合わされて似通ってくることがあって、そういうときにはより一般的に辿り着ける答えであればあるほど答えが同じになりやすい。逆に自分の根幹を成しているような思考はどうしても他人とは似かよらない部分があって、これはおれが人間や社会をひっくり返してやろうとすることと同じようなことを考えていそうな人がいるのに、その動機や理由までは異なっていることと似ているかもしれない。

 

 まあ他にもいくつかあるけどこんなことを考えていても何にもならないね。きっとこういうのを専門に取り扱っている人間もいるだろうし。

 何者にもなれないまま終わるのは嫌だなあ。

20160623 - PWYW

 

2016年6月23日。

 

 今日はTwenty fourの8シーズン目をちょっと見たり研究室に行ったり蛍を見に行ったり。蛍は全然見られない。

 

 毎日図書館に向かっているんだけど最近は新学期が始まってからもう落ち着いてきたのか新着図書の置いてあるところにあまり変化がない。

 今日見かけた本は「パクリの経済学」とかいう本。目次にレディオヘッドがどうたらと書いていたから巻末の索引から辿って記述されているページを読んだのだけれど、彼らのことをパクリ呼ばわりしているのではもちろんなく、新たな商売方法の可能性について例として取り上げていた。

 「PWYW」と呼ばれる売買方式はみんなも既に知っているかとは思うけど、「このコンテンツには値段をつけないで売りますよ、楽しむ前でも楽しんだ後でも好きな値段をつけて払ってくださいね。もちろんタダでもいいですよ」みたいな感じ。多分これのことをレディオヘッドを例に言っていたんだと思う。レディオヘッドはこの時特装版みたいなのも出して、それが10万枚の売り上げだったのに対し、ダウンロード含むトータルで300万枚超って言うから、新たな販売方式として既に非常に大きな可能性を持っていたわけだ。それが今からおよそ10年近く前の話。

 

 今はAmazonなどで出版社を通さずにもそこらの人が電子書籍を配信できるようになっているけど、おれもそういうデジタルコンテンツの販売に興味を持っていた時期があって、結構調べていた。例えばシリーズものなら自由に価格設定をさせることによって売り上げの推移も楽しめるし、回を追うごとに平均価格が上がっていったら目に見えてうれしいよね。Amazonで売るとどうしてもマージンを引かれる上に買い手が望む価格と自分が設定したい価格にギャップが出来ると売れなくなっちゃうから、低価格すぎてもだめかなと思ってそう考えていた。

 

 まあ、売れるようなお話なんて何も書き溜めてはいないんだけどね。