人間を叩きのめす

おれがクソ人間どもを叩きのめすまでに日々思ったことや考えたことをダラダラと綴る程度のブログ

鬱憤、疑問、とか

2017年1月25日。

 毎日毎日研究ばかりしている。色々と文句はあるがここでは出さずに法廷まで取っておこう。「普段温厚そうな人ほど怒らせると怖い」とは昔からよく聞く言葉だが、昔からよく聞いておきながら尚学ばない人間がいるとは悲しいことだ。

 本来ならばそろそろ大学も卒業となる時期にきたが、以前卒業旅行がてら一緒に関西でも行こうかと言っていた人とは音信不通になってしまっているし、どうしたものかな。

 最近はこの日記も全然書けていない。どうやら毎日つけている研究ノートが充実すればするほど他に出す言葉がなくなっていくようだ。「人は1日に何千語の言葉を消費する」とは聞いたことがあるが、その内訳をやり繰りしているのだろうか。無駄な労働に時間を取られてしまい本を読んだり知識を得たりする機会がもの凄く減ってしまった。思考の浅さが透けて見えるような文章しか書けない。

 ここ数日自分には十分な感情が備わっていないことと他人の感情がかなり透けて見えることの関連について考えていたのでまとめておく。

 自分には他人を真似る癖がある。他人の口癖、仕草、言葉遣いだけでなく会話内容のレベル、語調、身体の向きから顔の向き、目の前の人間のあらゆる点を模倣しようとしてしまう。まるで暗闇の中を手探りで人間の形を調べるように。
 そして自分には十分に感情が備わっていないため、いくら目の前の相手を真似してもどこかに違和感が残る。主体性の無さなのか、どれほど真似ても真似しきれない部分なのかはわからないが、自分と人間との間に確実な差異を感じる。その機微によって目の前の人間の個性や感情を把握している。
 とこんなことを考えてはみたが、普段は「相手の思考が透けて見える」としか感じていない。これはどう説明すべきなんだろうか。

 まあインターネットの向こう側にいる人間どもの薄汚ねえ感情なんてこのおれの知った事ではないから気にした事もあまりないのだけれども、中にはとてもとても優しい人がいて、この人の良心が次の時代も続きますように。と祈っている。

 感情のないおれでも教養としての良心は持ち合わせているのでね。

 あとは最近インド神話仏教などをチラホラと学び始めた。日本史も学び直したいしサンスクリット神道も学びたい。信じるかどうかは別として、学ぶということは人生を豊かにする第一歩だと思う。おれが人の生を歩んでいるのかと言われるとそれもまた別の話だが。
 科学一辺倒になってしまった人間は何がそうさせたんだろうね。世の中とは全てのものが相互に作用し合うものであるというのが科学の根幹にあるというのに。まあ宗教の民によって抑圧された科学の歴史を振り返ればそういう思いにもなるのかもしれないね、わからないけど。

 ああ、いつの間にか明日になってしまっていた。おやすみなさい。