人間を叩きのめす

おれがクソ人間どもを叩きのめすまでに日々思ったことや考えたことをダラダラと綴る程度のブログ

オタクの時代どころか日本の文化がことごとく終わり始めている気がする。

 

2016年9月16日。

 

 こうして日付を書き込んでいる瞬間はいつも「もうこんな…」と悲しい気持ちになるが、今日は缶ジュースでも飲みながらブログを書こうと思い至って自販機でジュースを買ったらもう一本当たった。わーい

 

 昨日「オタクの時代は終わった」というけれどそんなものはもうとっくの昔に終わり始めてたんじゃみたいなことを書こうかな~と書いたような気がするので書こうと思います。有言実行できるタイプなので。嘘だけど。

 

 みんなアニメ映画を見るにあたって普段自分たちとは違う立ち位置にいるいわゆる「リア充」みたいな人達が非常に多く同じアニメ映画を見ているというあたりでオタクのある種閉鎖的だった空間がなくなってしまったと嘆いているのかな。上手に言えるほどなにか立派な語彙がないな...「オタクコンテンツのリア充化」か?

 そもそも昔から度々多少の人気作品が「社会現象」として取沙汰されて日の目を見てきたわけだけど、それとは別に人は年を経るごとに個性を保つハードルが上がって行って何もしていないとどんどん個性を失っていくっていうのがあると思っていて、そうした人たちでも入り込んで安心感を得られるのがオタクコンテンツであり、ある種の閉鎖的な空間だったと思う。

 だから居場所が欲しいけど社会の椅子取りゲームには勝てそうもない人が、度々取り上げられるオタクの世界や自由に物事を楽しむオタクを見て「ああなんだ、あそこは椅子が無限にあるじゃないか」と群がってくる。元からいたオタクは自分たちの好きなものを好きなように楽しんでいただけだから外からやってきた「個性を守ろうとする椅子取りゲームのプレイヤー」と自分たちの見分けがつかない。彼らが自分たちに何をもたらすかも知らないでアニメの信者が増えたと喜ぶ。人が集まればまたさらに「社会現象」として注目を浴びる。

 そうやって二種類の人が混在しきったのがよくわかるのが「ラブライバー」だったと思う。あんなに身体中にグッズをじゃらんじゃらんと着飾って、あれはどう見てもアニメへの共感や賛同などではなく自らの個性の主張に見える。ラブライブであんなにわかりやすくオタク文化が開けた空間になっていることがわかるんだから、おそらくそれより少し以前にはもうオタクの時代は終わってしまっていたんだろう。

 「人それぞれ個性があってそれを大切にしなくてはならない」と幼いころから言われ、しかし出る杭はどんどん叩かれて行って立派なもののみが残るようになっている社会なのに、いつまでも個性を守ることに憑りつかれた人間たちを解放する手段が示されていないから、どこまでも世界を食いつぶしてでも自分たちの領域を確保しようとする。アニメみたいなわかりやすいオタク文化だけじゃなくて音楽でも小説でも映画やテレビ番組でさえあらゆる分野で同じことが起こっているように感じる。みんながイナゴの大群のようにあちらこちらを一瞬のうちに消費していって後には何も残らなくなりお金だけが移動し続けるいまのシステムは本当に気味が悪い。

 

 「オタクの時代は終わった」と言うが、もっと言ってしまえば日本の文化はもう終わり始めているんじゃないだろうか。

義務教育死ね!むしろおれが殺してやる!という気持ち。

 

2016年9月15日。

 

 おれは心底義務教育を憎んでいる(憎むという言葉は強い言葉だけど、感情的になっているのではなく不完全な制度を押し付けるべきでないのでさっさと辞めてしまえという強い思いがあるだけで、教育水準を掲げるのは必要なことだと思う)。

 被教育者である子供に教育を受けなくてはならない義務があり、教育者に教育を受けさせる義務がある以上、義務感のみに囚われて横暴を働いてしまわぬように被教育者に自治権を持たせなくてはならないと思っている。今はモンスターペアレントという人たちが過剰に働きかけすぎているのかもしれないが。

 どうして誰も自分に与えられた有限の時間をより良く生きることに注意を払わないんだろう。他人の時間が有限であることに注意と敬意を払わないんだろう。まったくというほどでもないがそのせいで小中学校での9年間は本当に時間の無駄だったと後悔してもしきれない。子供がどれほど自分の時間を大切にしようと努めても義務教育で拘束され教師の自己満足を押し付けられるために神様かなにかに時間を与えられ、茶番をそうとは気付かずに教育ごっこをしている。

 「うちの子は塾があるんです!学校の宿題なんてしてられません!」これこそが、子供が望んでいればだが「より良く生きる」ということに他ならない。親や教育者が道筋を示すことは本当に大切ではあるが、何が良いか悪いかを自らで判別する価値観を養い、制度に妄信的にならずに生きることができれば。(今そういう教育を受けている子たちは概して親に対して妄信的であるように思うが)

 このままじゃあいつか、学校は気になる女の子や男の子とやり取りを交わし親密度を上げるための場以外の意味を失うだろう。ざまあみろ!

 しかし義務教育という制度に目を瞑ればこの世の中からクソ人間どもを根絶やしにする最高の兵器は教育だと思っている。非破壊・非殺傷という優しさと良くも悪くもその後の人間を方向付けてしまう残酷さを兼ね備えていて良い。それ以上は何も言わないが。

 

 あとは今日Twitterで見かけた「「違う選択肢を選んでいたら今とは違っていたのか」と思うと悔しさもあるが、やり直しても結局同じ選択をして今に至るだろう」ということ。

 自分の場合選択肢がそもそもなかった親や周囲の環境、受けた教育に基づいた考え方が出来上がってしまっているので選択肢が選べるようになった段階でどれをどう選んでも今の自分に辿り着く。どうしても変えられないものだから神様の意思なんだろうなと思う。

 他の人たちはそうではないんだろう。選択肢の数に応じて違った現在の可能性を持っていたはずで、きっとそれを選べることが自由意志というやつなんだと思う。後悔もあるかもしれないがこれからを大切にしてほしい。

 

 明日は「オタクの時代は終わった」と言う人間がいるけれどそんなものはもうとっくの昔に終わり始めてたんじゃボケという話を書くような気がします。メモです。

孤独を身に纏って可哀想な顔をしている人間

 

2016年9月14日。

 誰か連歌俳諧とかそういう方面に詳しい方がいたら是非その勉強に役立つ本や資料を教えてください。よろしくお願いします。国語の授業はまじめに受けていなかったからどういう言葉が雅やかでとかこの句はどういう情景を表しているとかそういう説明がある本があれば知りたいです。

 

 なんだか物凄い孤独感に襲われているので孤独をファッションとして身に纏って可哀想な顔をしているだけの人間のことを考えていた。昨日書いた承認欲求の話に通ずるところもあるかもしれない。おれの抱える孤独って自分自身の持つ「帰る場所がない」「居場所がない」「どこに行けばいいのかもわからない」の3つの要因と、さらに外的な要因として人間によって排斥されるという4つの要因で成り立っているはずなんだけれど、「かまってくれる人がいない」程度で孤独だ孤独だと騒いでいる人間がいて、周りから見たらどちらも孤独だと言っている人間一人にしか映らなくて、程度の軽い方には簡単に手を差し伸べて仲良くどこかに行ってしまう。

 

 Twitterでは「悲しそうな顔をしてたら人のよさそうなオジサンが助けてくれる」なんて書いてみたりはしたけれど、それを目の当たりにしたことはあっても自分がそういう目にあったことは全くない。いつも「甘えやがってクソ人間が、てめえもなに甘やかしてんだボケ」と思いながらやりとりを見ている。幼少のころからただ「甘えるな」とだけ言われてボコボコにされ続けてきたから目の前で甘えてる人間がどうしようもないゴミに見える。スーパーでお菓子を買って買ってと喚く子供は大きくなったらこんな廃棄物になるのかな~と思ってしまう。

 可哀想な顔してる人間どもはずるいよ、そのくせ「最後は笑って死にたい」とかぬかしやがる。甘えるのもいい加減にしろ...お前たちの生きられない世界をつくってやる

 

 以前「頭のおかしいやつらばっかりで嫌になる」って言ったら「それが多数派ならおかしいのはあなたなのでは?」って言われたことがある。おかしいかおかしくないかを多数決で決めようというのがおかしいことに気付かないのか?だからお前はおかしいんだ。と思ったんだけど、多数決を利用するのではなくすがりつくのはおかしいものをおかしいと感じる直観、良いものを良いとする直観を持たない無能だけだよ。私は無能ですとプラカードを掲げて殴りかかってこないでくれ。そういう奴らと一線を画しているのを感じられているのだと思えば、孤独感もそう悪い感覚ではないのかもしれない。

 

 それではずっと読めていなかった『岡潔集第1巻』を読みます。

頭にこびりついた「承認欲求って怖いよね」という言葉

 

2016年9月13日。

 ほぼひと月ぶりの更新になるか。昨日か一昨日から思うところあってTwitterみたいにこまめにやっていくタイプのインターネットを控えようと考えていたんだけど、そういう立場を取ってみるとやはりTwitterなどで目にする人間どものなんとひどく醜い承認欲求のことかよ。

 「自分を認めて欲しい」これだけならまだわかる。集団の中で個性を見失わないためには(その必要があるかは別として)大事なことではあると思う。しかし”他人を貶めてでも”を付けている人間が少なからずいる。これは本当に怖いことだ。

 去年「承認欲求って本当に怖いよね。人に与える影響とか害なんて考えないで自分のためだけにインターネットがあるとでも思っているかのような人がいるでしょ、もう本当に嫌になっちゃった」と話してくれた人がいた。今はもういない。

 これを書いているだけでも悲しくなってくるほどみんなが醜いよ。どうして正気でいられるんだ。本当に人間どもはこれがまともな状態だと思っているんだろうか。無頓着なのか無知なのか無自覚なのかはおれにとってはどうでもいいしどうしようもないことだけれども、あまりにも酷すぎる。

 ただ明るく振舞っている人間を見つけては粗探しをして貶めて、自分の場所が脅かされていると感じるからそういう攻撃的な行動に走るってのはわかるけど、そういう奴は自己評価が実際よりも高いから相応の扱いを受けてもないがしろにされていると感じてそういった行動に出るんだろうな。自惚れやがって。

 自己評価が低すぎもせず、真っ当に生きようと必死になってた人たちに好きだと思うことが多々あったのに、そういう人たちはみんな自惚れたクソ野郎どもに潰されてしまった。

 普段他人に認められないせいで溜まった欲求不満を他人を貶めてでも解消しようとするためにインターネットを使う人間がいる限り最終状態にあるインターネットは自惚れたクソ人間どもによる地獄絵図だ。人間が直視できる場所じゃないよ。おれももうダメかもしれない。

何一つ手につかなくなりアニメや映画を見た

 

 2016年8月8日。

 

 ここ3日間くらい、勉強が全く捗らなくなってしまったので気分転換にアニメや映画を見た。それらを見て思ったことを言葉にし文章にするのは些か抵抗もあったがせっかくの気分転換なのだから手遊び程度に書こうと思う。

 見た順に列挙すると、まず「DARKER THAN BLACK -黒の契約者-」とその外伝、二期に当たる「DARKER THAN BLACK - 流星の双子-」を見た。次に「PSYCHO-PASS」を見、映画「オーシャンズ11」を見てから「PSYCHO-PASS 2」を見て最後に「ショーシャンクの空に」を見た。普段アニメや映画、ドラマを視聴したり本を読んだりする時には、それらのストーリーがどうだったとか登場人物がどうであったかというよりも、そこで自分が何を思うかに着目しているので、あまり詳細な記述はできないと思う。

 

 まずは「DARKER THAN BLACK」のシリーズ。これはもう文句のないほど面白かった。「契約者は非合理的なことをしない」なんて言っておきながら意外とそこまで厳密ではなかったりもしたけれど、そもそもがファンタジー、能力モノというべきか設定上まかり通る程度の無理しかしていないように感じた。一期では登場するたびにアンバーが幼くなっていたようでそれが能力の対価なのかなと思っていたら案の定幼女と化した。時間操作系の能力者はどんな背景を持った作品でも伏線を張り巡らす役に起用されて陳腐化しそうなものではあるが、個々の役割よりもそれぞれの何かを抱えて生きながら出てくる組織なんかと立ち向かったりしている方に目が行くので、結構楽しめた。これは気に入った作品の一つとして今更ながら誰かに紹介したいと思えた。二期もガンスリンガーガールが好きな人ならきっと好きだよ。人がそれぞれ抱えるもののために生きていく感じが。

 

 「PSYCHO-PASS」シリーズはストーリーも人物描写も、理解力のない人が描いたのか、理解力のない人でも楽しめるように描いて陳腐化したかのどちらかだと思う。

 人物描写に関していえば、敵側のマキシマによって扇動された人間の主体性の無さと詰めの甘さがマキシマの扇動者としての有能感を煽っているし、公安側も視聴者に提供されない物事から突然コウガミが力のある一手一手を打っていき刑事の勘だの猟犬がどうとか言って実力があるように見せかけている。こういう周りを低く設定して主要キャラを有能に見せかけるのはもうドラゴンボールあたりで満足してくれねえかなと常々思っている。まあ出てくる人間の主体性の無さがシビュラの支配を暗に物語っているということなのかな。何かの目的があったり背景に何かを抱えてそのために生きたりしていないとあまり面白いと思えないかもしれない。

 ストーリーにしてもせっかく終盤でマキシマとコウガミの共通点、コウガミとツネモリの共通点、シビュラを見たツネモリとマキシマとの共通点が見えて、マキシマの「孤独感」コウガミの「殺意」ツネモリの「義務感」の三つ巴のせめぎあいが見られると思っていたらツネモリは途中でリタイヤしコウガミがあっさりマキシマを殺し本当につまらなかった。コウガミとマキシマをパラライザーで止めマキシマをシビュラの前に連れていきそこでシビュラさえも欺き破壊する、秩序の保たれた世界を目指した主人公ツネモリによる全ての登場人物を欺いた大どんでん返しが見たかったのになあ。そこに必要な伏線は十分に張られていたのに。マキシマの革命の意志はコウガミ一人の殺意と天秤にかけていいものではなかったように思えるしそれで一気に今までのストーリーから価値が失われたような気がする。

 

 「オーシャンズ11」と「ショーシャンクの空に」は何度か見たことがあったから特に改まって言うことはないや。

現実を見ろゴミどもが

 

2016年8月4日。

 

 今日はたくさんブログに書こうかなと思える物事を思いついたんだけど、どの題材を選んだところで書いていたらどうにもまとまりきらなくなる。「世界は厳しいね」という意識を持とうとする人間たちのこととか、恐怖を感じる人間がそれを乗り越えるために一番いいのはどういうことかとか、都合のいい人間どもに社会という集団内で生きる意味があるのかとか、インターネットには第n次現実が溢れて「真実」と呼べるものが殆ど無くまさに「この世界はすべて嘘だ」が本当なんじゃないかとか、いろいろ思ったんだけどね。いろいろ思いついちゃった日は結局まとまらないままどれも思考がどんどん進んで行って宙ぶらりんになってしまう。

 

 もう「最近」と呼べるほど最近の話ではなくなってしまったんだけど、情報を媒介するツールとしてテレビ、ラジオ、新聞紙、インターネットがあるとして、テレビで流行った話題が他で取り上げられたり、インターネットで流行った動画がテレビで流されたりしていくと、二度目に同じ情報を見たときに得られる情報量が0なわけだからその分時間を無駄にしたことになる。

 それと同じで、Twitter2ch、動画サイト、まとめスレだと、情報が重複しすぎて第二次現実どころか三次、四次…となって行く。

 ここでおれが言っている第n次現実というのは、一次が自分の実体験、二次が自分が本やテレビその他の情報を媒介するもので見聞きした誰かの体験、三次以降がいわゆる「友達がそのまた友達から聞いた話なんだけどさ…」という「又聞き」に相当する。まあ二次以降はどれも実体験以外の情報によって構成される現実だからすべて第二次現実と言ってもいいだろうけど。今や各情報媒体はその誰かの「第二次現実」をいかにして自分が創るかで競い合っているよね。

 人々が第一次現実から全てを得るには時間的にも物質的にも限界がある。だから情報媒体から情報を得て頭の中に世界をもう一つ創ることでそこを補うわけだけど、情報媒体がその第二次現実の提供で財を成そうとすると、世の中に溢れかえった情報で第二次現実を構成してしまう人間も出てくるよね。簡単に言っちゃえば「お前それインターネットに書いてあったことじゃんもっとお前にしかない話をしろよ」ってことになる。

 インターネットは手軽に情報を得られるけどその分情報量が著しく低いんだ、本や新聞はまだマシなんだけどテレビは最近インターネットに近くなってきている。コメンテーターがいる分まだマシかと思っても、当たり障りのないことを言って世間の同調を狙ってたりするといなくてもいいよねって思う。第一次現実に比べて第二次現実の規模が圧倒的に大きく、かつ第二次現実が第一次現実とある程度リンクしていない人間と喋るのは時間の無駄かな。例えば芸能人の噂話なんか集めてあなたの人生のどこに好影響をもたらすの?

 

 まあ人間に合理性を求めるという非合理的なことをやるつもりもないよ。感情もないし。