人間を叩きのめす

おれがクソ人間どもを叩きのめすまでに日々思ったことや考えたことをダラダラと綴る程度のブログ

何一つ手につかなくなりアニメや映画を見た

 

 2016年8月8日。

 

 ここ3日間くらい、勉強が全く捗らなくなってしまったので気分転換にアニメや映画を見た。それらを見て思ったことを言葉にし文章にするのは些か抵抗もあったがせっかくの気分転換なのだから手遊び程度に書こうと思う。

 見た順に列挙すると、まず「DARKER THAN BLACK -黒の契約者-」とその外伝、二期に当たる「DARKER THAN BLACK - 流星の双子-」を見た。次に「PSYCHO-PASS」を見、映画「オーシャンズ11」を見てから「PSYCHO-PASS 2」を見て最後に「ショーシャンクの空に」を見た。普段アニメや映画、ドラマを視聴したり本を読んだりする時には、それらのストーリーがどうだったとか登場人物がどうであったかというよりも、そこで自分が何を思うかに着目しているので、あまり詳細な記述はできないと思う。

 

 まずは「DARKER THAN BLACK」のシリーズ。これはもう文句のないほど面白かった。「契約者は非合理的なことをしない」なんて言っておきながら意外とそこまで厳密ではなかったりもしたけれど、そもそもがファンタジー、能力モノというべきか設定上まかり通る程度の無理しかしていないように感じた。一期では登場するたびにアンバーが幼くなっていたようでそれが能力の対価なのかなと思っていたら案の定幼女と化した。時間操作系の能力者はどんな背景を持った作品でも伏線を張り巡らす役に起用されて陳腐化しそうなものではあるが、個々の役割よりもそれぞれの何かを抱えて生きながら出てくる組織なんかと立ち向かったりしている方に目が行くので、結構楽しめた。これは気に入った作品の一つとして今更ながら誰かに紹介したいと思えた。二期もガンスリンガーガールが好きな人ならきっと好きだよ。人がそれぞれ抱えるもののために生きていく感じが。

 

 「PSYCHO-PASS」シリーズはストーリーも人物描写も、理解力のない人が描いたのか、理解力のない人でも楽しめるように描いて陳腐化したかのどちらかだと思う。

 人物描写に関していえば、敵側のマキシマによって扇動された人間の主体性の無さと詰めの甘さがマキシマの扇動者としての有能感を煽っているし、公安側も視聴者に提供されない物事から突然コウガミが力のある一手一手を打っていき刑事の勘だの猟犬がどうとか言って実力があるように見せかけている。こういう周りを低く設定して主要キャラを有能に見せかけるのはもうドラゴンボールあたりで満足してくれねえかなと常々思っている。まあ出てくる人間の主体性の無さがシビュラの支配を暗に物語っているということなのかな。何かの目的があったり背景に何かを抱えてそのために生きたりしていないとあまり面白いと思えないかもしれない。

 ストーリーにしてもせっかく終盤でマキシマとコウガミの共通点、コウガミとツネモリの共通点、シビュラを見たツネモリとマキシマとの共通点が見えて、マキシマの「孤独感」コウガミの「殺意」ツネモリの「義務感」の三つ巴のせめぎあいが見られると思っていたらツネモリは途中でリタイヤしコウガミがあっさりマキシマを殺し本当につまらなかった。コウガミとマキシマをパラライザーで止めマキシマをシビュラの前に連れていきそこでシビュラさえも欺き破壊する、秩序の保たれた世界を目指した主人公ツネモリによる全ての登場人物を欺いた大どんでん返しが見たかったのになあ。そこに必要な伏線は十分に張られていたのに。マキシマの革命の意志はコウガミ一人の殺意と天秤にかけていいものではなかったように思えるしそれで一気に今までのストーリーから価値が失われたような気がする。

 

 「オーシャンズ11」と「ショーシャンクの空に」は何度か見たことがあったから特に改まって言うことはないや。

現実を見ろゴミどもが

 

2016年8月4日。

 

 今日はたくさんブログに書こうかなと思える物事を思いついたんだけど、どの題材を選んだところで書いていたらどうにもまとまりきらなくなる。「世界は厳しいね」という意識を持とうとする人間たちのこととか、恐怖を感じる人間がそれを乗り越えるために一番いいのはどういうことかとか、都合のいい人間どもに社会という集団内で生きる意味があるのかとか、インターネットには第n次現実が溢れて「真実」と呼べるものが殆ど無くまさに「この世界はすべて嘘だ」が本当なんじゃないかとか、いろいろ思ったんだけどね。いろいろ思いついちゃった日は結局まとまらないままどれも思考がどんどん進んで行って宙ぶらりんになってしまう。

 

 もう「最近」と呼べるほど最近の話ではなくなってしまったんだけど、情報を媒介するツールとしてテレビ、ラジオ、新聞紙、インターネットがあるとして、テレビで流行った話題が他で取り上げられたり、インターネットで流行った動画がテレビで流されたりしていくと、二度目に同じ情報を見たときに得られる情報量が0なわけだからその分時間を無駄にしたことになる。

 それと同じで、Twitter2ch、動画サイト、まとめスレだと、情報が重複しすぎて第二次現実どころか三次、四次…となって行く。

 ここでおれが言っている第n次現実というのは、一次が自分の実体験、二次が自分が本やテレビその他の情報を媒介するもので見聞きした誰かの体験、三次以降がいわゆる「友達がそのまた友達から聞いた話なんだけどさ…」という「又聞き」に相当する。まあ二次以降はどれも実体験以外の情報によって構成される現実だからすべて第二次現実と言ってもいいだろうけど。今や各情報媒体はその誰かの「第二次現実」をいかにして自分が創るかで競い合っているよね。

 人々が第一次現実から全てを得るには時間的にも物質的にも限界がある。だから情報媒体から情報を得て頭の中に世界をもう一つ創ることでそこを補うわけだけど、情報媒体がその第二次現実の提供で財を成そうとすると、世の中に溢れかえった情報で第二次現実を構成してしまう人間も出てくるよね。簡単に言っちゃえば「お前それインターネットに書いてあったことじゃんもっとお前にしかない話をしろよ」ってことになる。

 インターネットは手軽に情報を得られるけどその分情報量が著しく低いんだ、本や新聞はまだマシなんだけどテレビは最近インターネットに近くなってきている。コメンテーターがいる分まだマシかと思っても、当たり障りのないことを言って世間の同調を狙ってたりするといなくてもいいよねって思う。第一次現実に比べて第二次現実の規模が圧倒的に大きく、かつ第二次現実が第一次現実とある程度リンクしていない人間と喋るのは時間の無駄かな。例えば芸能人の噂話なんか集めてあなたの人生のどこに好影響をもたらすの?

 

 まあ人間に合理性を求めるという非合理的なことをやるつもりもないよ。感情もないし。

信仰上の理由で無宗教

 

2016年8月2日。

 

 今日も朝から晩まで勉強(という勉強らしいことはあまりできなかったが)をしていた。まったくつまらない人生だ。他人にそう言われたら「蝉はあんなにけたたましく鳴いて”夏の風物詩”と呼ばれるまでに7年も要するんだよ」と見栄を張ることもできるけど、そんなの蝉が7年土の中にいるよりも、出てくる事実を受けた後付けの物言いでしかない。歴代の名立たる音楽家や作家、芸術家が最初から最高だったわけじゃないし、必ずしも努力を重ねた結果が実るとは言えず、人知れず終わっていく人間もいることを考えると、自分の今が「つまらない」かどうかの判断なんて死んだ後の他人からの評価でしかないなという考えに至ってそこで思考が行き詰まる。

 

 おれはよく「信仰上の理由で」という文句を使って人間からの誘いに乗るのを渋ることがあるが、決まって「何か宗教に入ってるの?」と聞かれたり、嫌なものを見る目や引き攣った顔を向けられる。自分には預言者と普通の人間との違いすら分からないし、「初めに言葉は神であった」という”言葉”を発しているのが人間である以上、宗教とかいう人間が勝手に作ったものを何も考えずに崇めるわけにはいかないし、信仰というよりは自分のアイデンティティを守ろうとする意志か、自分の良心を全うしようという意志か、それが一体なんという言葉で表すべきかはわからないけれど、その行いの善悪を判断せずに考えることを辞めて生きることに物凄い拒否反応がある。自分が善であるか悪であるかの判断すら定かではないのだから決して考えることを辞めることは自分の良心が許さないという、それだけのことなんだけど、かっこつけて「信仰上の理由」とか言ってる。あとはそういう理由で宗教とは一線を画した立場をとるけれど、かといって無宗教を盾に他人の信仰をないがしろにする不躾な奴らとは一緒にしてもらいたくはないから、ちょっとずつ人々の信ずるものを勉強して人々と折り合いの付く点を探そうと努力はしている。コスモポリタンだから。

 

 まあ例えば「判断力が鈍る」「その依存性で欲求を抑えられなくなる」というだけでお酒を飲むのを拒絶するというわけではもちろんなく、あくまでも人間同士の協調した世界を理想としている以上はできる限り人の誘いを大切にしようとはしている。しかし最近は本当に”孤独”というほかないくらいに人間関係がなくなってしまっている。つまらない人間だからね。

無数の1時間睡眠の方が勉強に向いているのではないだろうか 

 

2016年7月29日。

 

 ああ、もう8月だ。でも8月は受験で全て消えるつもりでいるから実質もう9月だ。

 

 Twitterのアカウントを復活させてチラリと呟いてみたりもしたがやはり今の自分に必要かと問われるとそうでもないような気がするからまた消してしまおう。いつか必ず時機を見て話したい・会いたいと思えるような人を主にフォローしているからそう簡単には割り切れないや。

 

 最近英語の復習を始めた。数学・物理・専門科目もやっているけどそろそろ英語もということで1週間くらいは重点的にやろうと思う。とりあえず揃えた本は『TOEFL ITPテスト完全制覇』『TOEFL TEST必須英単語5600』『全問正解するTOEFL ITP TEST文法問題対策』『必ず聞き取れるTOEFLテストリスニング』の4冊。2日で1冊やりこめばまあなんとかなるんじゃないかという淡い期待、これがいわゆるオタクの好む言葉の一つである「希望的観測」というやつかと思いながら。

 

 数学はもう微分方程式もバリバリ解けるし偏微分方程式はもうちょっとだけど学んでこなかった複素関数論の留数定理も理解に困る程のものではなかったし、エルミート行列とかユニタリ行列とかジョルダン標準形とかも学んだし、あとはラプラス変換フーリエ変換とベクトル解析あたりの復習でいいかな。

 気分の乗る日は1日~2日で1冊の本を確実に理解し把握できるのだけれど、気分の乗らない日は1日に20ページから50ページ程しか理解が進まなくて自分の無能さにほとほと呆れてしまう。

 1つの講義で半期に1つの本を使うとすると、大体1単位だったか2単位の科目で講義が15時限ほどあって1時限が90分なのだから1冊に22.5時間を要することになる。実際の講義は理解のために予習復習にもう1時限ずつ要するとすると独学では予習が無くとも45時間、休息のために1時間睡眠を3度も取り入れつつ2日で1冊は確実に理解をして読むことができる数字だ。なおかつおれは今ほとんどが以前に学んだことがあるものの復習をしているんだ。Twitterなんてやるよりもより確実な理解に勤しむべきではないのか。

 

 Wikipediaディオゲネスの項目を読んでいたら眠くなってきてしまった。

ディオゲネス (犬儒学派) - Wikipedia

人間を支配するという最大限の思いやり

 

2016年7月28日。

 

 人が人を大切にする為に何をしたらいいんだろう。

 人は皆それぞれ怒りや悲しみや喜びや何か偉大なる決意だったり、他にも色々なものを抱えて生きているだろうから、それをお互い傷つけあうことの無いように、自分が自分として生き抜くことが出来るようにと思って気高く高潔に、他人の尊厳を重んじて生活を送ろうと決めているんだけど、自分の思う通りにしたいがために他人を傷つける人もいる。

 おれはそこまで寛大になりきれてはいないから、そういう奴らを同じ人間扱いしていないし、そういう奴らって何か大きなことを掲げてそれを隠れ蓑に欲求を満たすから性質が悪い。自分たちは平気で動物の肉を食うくせにどの動物は知能が高いとか低いとかで殺していいかどうか判断して騒いでるだけで共感者から金を得る団体とか、尊厳ある死を認めろと叫んでそれを建前に人を傷つける奴とか。

 聞こえのいいことばっかり言って結局何もしない人間もクソッたれだと思う。おれ自身もそうかもしれんが。

 

 じゃあどうすればいいのかというと、「みんなで仲良くしましょう」つっても無理なんだったら押さえつけて無理やり根本から変えるしかない。「みんな違ってみんないい」って言うし、平坦化を好む日本ではむしろ突出した人間の突出した部分がもてはやされる時もあるけれど、個性を持つことに対する責任が全く考えられていないよね。

 全員が社会の一員として、生まれてから死ぬまで生きるというのなら、全員が協働して社会を築き上げられるように同じ教育を受けるべきだし、生まれた時点で親に教育を一任している時点で各自の背景にはばらつきが出るし、だから社会への参加はそれが必要か否かで各自が選択すべきことなのに、誰かが何かをやらかしたら「劣悪な家庭環境」「薬物・宗教への傾倒」「堕落した生活」みたいなその人の背景と全て彼らの自己責任であるみたいな風に取り上げてみたりしてさ、その背景のさらに背景にあるのは自分たちの利己心なんじゃあないのか?

 「自分の子は自分の手で育てたい」「自分の叶えられなかったことを子供に叶えて欲しい」なるほど立派な教育方針だが、しかしそれは子供を社会の一員と仕立てるのに必要もしくは十分なことか?他人の振りを見て似たようなことをやっていたらそれで社会に組み込まれてますみてえな顔しやがってよ。

 多様性を認めるというのは全体が失敗しない為には重要なことだし、「個を優先したいなら集団に入り込むな」なんて言わないけれど、なんのために集団が形成されるかを考えずに個の主張ばかりを繰り広げる人間を見ると、なぜこいつは人間社会の一員ですよみたいな顔して生きてるんだろうって考えてしまう。自分たちだけで勝手に生きて死ねよ。これはおれが持つ社会に対する最大限の思いやりだと思っている。

ブラックホール脱毛定理

 

2016年7月26日。

 

 ブラックホール脱毛定理。なんだこれは。ハゲ頭の人たちはびっくりして毛(腰ではなく!)を抜かしてしまうに違いない…。

 

 なぜ思考がこのブラックホール脱毛定理に及んだのかというと、複素関数論を勉強している時に「コーシーの境界」(?)とかいう単語が出てきて、Googleで検索したら全然出てこない。色々変えて検索してみてwikipediaでまず「ライスナー・ノルドシュトルム解」というアインシュタイン方程式の厳密解の一つでシュヴァルツシルトブラックホール電荷を持たせたブラックホールを表現している(?)解の項目に「この解には2つの地平面があり外面が事象の地平面で内面がコーシー地平面と呼ばれる」とあったのを見た。次にリンクを辿ってペンローズの宇宙検閲官仮説を読んでいたら「ブラックホール脱毛定理」とあってもう笑っちゃった。複素関数も面白いしね。

 

 ポケモンGoがレベル10になった。ただ図書館(ポケストップ(?)になっている)で引きこもって勉強しながらたまにクルクル回していただけなんだけどね。レアっぽいポケモンは全然でないし卵を孵化させるほど歩き回ってもいないしボールと卵がめちゃめちゃ溜まってしまっている。

 

 そういえば今朝指導教員と話していて今年度は少なくとも2回、おそらく3回は学会で発表することになりそう。院試があるからそんなに発表することないですよ~と言いつつ良い機会だからやらせていただきますと一応言っておいた。後半あまり飛ばし過ぎない程度の忙しさくらいでいいなあ。まだ自分を殺してるほど余裕は無いんだ。

何もかも壊してしまうのが手っ取り早いと思う

 

2016年7月。今日が何日で何曜日なのかはもう感覚がなくなってしまった。

 

 朝も夜も無くひたすらシャープペンを滑らせ、頭が働かなくなったらガラナでカフェインをぶち込み、そこから一瞬にして睡眠・起床のコンボを決め、その他一切の感覚を殺してでも机にかじりついている。

 しかし感覚を殺しているとは言うものの、いつまでも耳には謎のBGMがこびりついているし、視界を黒い影が通り過ぎたかと思えば全身がむず痒くなり、殺したはずの感覚がおれを苛ませる。

 

 休憩にとJOJOを読んでいたら、前は無意識にただのバトル漫画として読んでいたはずが、言いたいことが伝わってくるというべきか、自分の言いたかったことが書かれているというべきか、嫌悪を覚えるほどの人間の邪悪さ、人が生きようとする時の覚悟・良心、真実に辿り着こうとする人間の本質、そういった日頃考えて頭の中を廻っていた厄介なものが見事に登場人物の口から整然と出てきていることに気が付いた。

 

 しかしジョースターの一族が邪悪な人間たちをひとりひとりと潰していくのと、プッチ神父が世界を一巡させて人々を幸福に辿り着かせようとすることの何が違うのか。

 

 自分でもよく考えることの一つに、どれほどの悪を抱えた人間でさえもひとりひとり選んで消していくのは手間がかかるから、じゃあみんなまとめて不幸になるか幸福を得るかしたほうが単純だというものがあるが、人が人に対して持つべき良心を越えた、何か神的な人間社会全体への影響力を持った立場からの全体に対する良心というものもあると思う。

 

 まさにJOJO第6部は、プッチ神父の人間全体に対する普遍的な良心と、ジョースター家とその周囲の人が人に対して働かせる正義感のようなもののぶつかり合いだった。

 

 あとは行き着くところまで行ってしまえば破壊者も救世主にも違いは無いと思う。そのどちらが現れようと、我が身が可愛いやつは他人を犠牲にしてでも危機から逃れる道を選ぶし、他人を救おうとはせずに自分の為だけに縋るから。人間って、本当にきもいよね。まさに吐き気を催すほどの邪悪だよ。