人間を叩きのめす

おれがクソ人間どもを叩きのめすまでに日々思ったことや考えたことをダラダラと綴る程度のブログ

信仰上の理由で無宗教

 

2016年8月2日。

 

 今日も朝から晩まで勉強(という勉強らしいことはあまりできなかったが)をしていた。まったくつまらない人生だ。他人にそう言われたら「蝉はあんなにけたたましく鳴いて”夏の風物詩”と呼ばれるまでに7年も要するんだよ」と見栄を張ることもできるけど、そんなの蝉が7年土の中にいるよりも、出てくる事実を受けた後付けの物言いでしかない。歴代の名立たる音楽家や作家、芸術家が最初から最高だったわけじゃないし、必ずしも努力を重ねた結果が実るとは言えず、人知れず終わっていく人間もいることを考えると、自分の今が「つまらない」かどうかの判断なんて死んだ後の他人からの評価でしかないなという考えに至ってそこで思考が行き詰まる。

 

 おれはよく「信仰上の理由で」という文句を使って人間からの誘いに乗るのを渋ることがあるが、決まって「何か宗教に入ってるの?」と聞かれたり、嫌なものを見る目や引き攣った顔を向けられる。自分には預言者と普通の人間との違いすら分からないし、「初めに言葉は神であった」という”言葉”を発しているのが人間である以上、宗教とかいう人間が勝手に作ったものを何も考えずに崇めるわけにはいかないし、信仰というよりは自分のアイデンティティを守ろうとする意志か、自分の良心を全うしようという意志か、それが一体なんという言葉で表すべきかはわからないけれど、その行いの善悪を判断せずに考えることを辞めて生きることに物凄い拒否反応がある。自分が善であるか悪であるかの判断すら定かではないのだから決して考えることを辞めることは自分の良心が許さないという、それだけのことなんだけど、かっこつけて「信仰上の理由」とか言ってる。あとはそういう理由で宗教とは一線を画した立場をとるけれど、かといって無宗教を盾に他人の信仰をないがしろにする不躾な奴らとは一緒にしてもらいたくはないから、ちょっとずつ人々の信ずるものを勉強して人々と折り合いの付く点を探そうと努力はしている。コスモポリタンだから。

 

 まあ例えば「判断力が鈍る」「その依存性で欲求を抑えられなくなる」というだけでお酒を飲むのを拒絶するというわけではもちろんなく、あくまでも人間同士の協調した世界を理想としている以上はできる限り人の誘いを大切にしようとはしている。しかし最近は本当に”孤独”というほかないくらいに人間関係がなくなってしまっている。つまらない人間だからね。