人間を叩きのめす

おれがクソ人間どもを叩きのめすまでに日々思ったことや考えたことをダラダラと綴る程度のブログ

自己の内面と向き合うということ

2018年10月21日

 

久しぶりに更新する.

2か月前まで4月だったんじゃないかというくらい一瞬で時間が過ぎた.

最近は全く見ないけど,以前は非常に長い時間を過ごす夢をよく見ていた.というか最近眠れてないな...

自分の人生以上の時間を夢の中で過ごしているような気がする.こうなると夢と現実のどっちが本当なんだろうね.

自分の内側に湧くものが本当なのか,外側が感じてきたものが本当なのか.

おれはどちらかというと内向的な人間だから,内側が本当であってほしいなあ.

よく内向的な人間と外向的な人間に関して,シャイな人間とコミュニケーション能力が高い人間を例に挙げられるけど,それは違うよね.きっと外向的と外交的が混同しているために反対の内向的な人間をシャイにしたがるんだろう.

物事の解答を自己の内面に求めるか外界に求めるかの違いだと思う.

辞書で調べると”興味や関心が自分の内部にばかり向かうさま”とある.

例えばおれが音楽を聴くときには曲の選び方が2種類あって,音で選ぶものと詩で選ぶものがある.

音で選ぶものは大抵EDMとかで,聴いてその瞬間に楽しめるもの.AviciiとかKrewellaとか.詩で選ぶものはどちらかというとその人が自己の内面と向き合って感情をしっかりと書き表したものを選ぶ.これはいろいろあって,かつての自分を見返して今どう思うかとか,現在の自分をもう一度見つめなおしているとか,世間に対するやりようのない感情,怒りとか悲しみとかたまに喜びとかをその人自身の言葉で描いたものが多いかな.

おれの大好きな,本当に大好きなhideはいつも自分自身をメタ視点から見たような詩を書いていたと思う.BOØWYの曲も割とあの時代に潰されてたまるかというような反骨精神みたいなものを感じるものがいくつかあるけど,その本当の良さは同じ時代を生きた人たちじゃないと完全には理解しえないんだろうなと思うとちょっと羨ましくも悲しくもある.

今,一言でいうと君を守りたいとかもっと自分を理解してくれみたいな歌詞ばっかり売れてるんじゃないかと思うけど,あまりにも外部に自分の存在を委ねすぎているように感じる.あとは歌詞にこちらに対する意味なんてなくてリズム感とか口当たりのいい言葉選びとかをしているのとかもよくある.その”君”が指すものが純粋だったころの自分自身とか,自分を理解してくれじゃなくて自分自身に対して第三者視点からもっとお前のことを理解したいという思いを綴ってほしい.

どんなに人間を守ってもそいつは結局他人だし価値観は人それぞれだし自分の崇高だったり純粋だったりまっすぐな精神以外は守っても檻で囲ってるのと大して変わらんと思う.まあ檻の中で偽物の自由と安全な不幸を嗜みながら基本的に安定した人生を幸福として死んでいくのを望む人間もいるしいいんじゃない.そいつらは家畜と変わらんと思うが.

 

まあこうやって自分の存在を他人に委ねることをぼろくそに言ったりもするし思っているけど,別に他人と交流するのが良くないと思っているわけではない.みんなでワイワイパーティしたりするのも楽しいし.ただやっぱりどうせなら自分自身というものをしっかり持った人と交流したい.

たまにインターネットに書かれたような偏見にまみれた人間と出会うとお前自身の意見は何なんだ?となる.大抵自分は標準であるということに安心感を覚えているのが本質で,普通は常識は世間はこうだからとしか言わないけど,その普通や常識や世間があるべき軸から外れているかどうかではなく,それらを軸として自分が外れていないのがあるべき姿であるように考えているんだろうか.

これもやっぱり自分の存在を何か絶対的な基準を設けてそこに委ねようという意志が透けて見える.まあ他人の生き方なんてやっぱりどうでもいいよな.生きて死ねとしか思わん.”俺は俺の死を死にたい”それでいいじゃん.お前の檻にこのおれを入れようとするなということ.

 

あと最後に一つ話は少し変わるけど,自分の考えたものややってきた物事なんかを他人からしっかり守ろうと思える人間じゃないと新しいものを生み出すのは向いてない.これは研究をやっていてよく思う.頑固もよくないけど.

 

もっといっぱい書けそうだけど飽きてきたのでこの辺で終わり.