人間を叩きのめす

おれがクソ人間どもを叩きのめすまでに日々思ったことや考えたことをダラダラと綴る程度のブログ

20160610-20160611 - 上位互換・虚無・分類癖

 

2016年6月10日と6月11日の分。

 

 まず6月10日。誰かが「自分の上位互換がいるとも知らないで万能感に浸りやがって」みたいなことを言っていた。まったくその通りだと思う。その通りだとは思うが人間が成長して老いて死んでいく以上自分が上位互換であった人間を越えなくてはならない場面がくると思う。上には上がいることを努力をやめる理由にするのは不誠実だと思った。他人の心の持ち様なんてどうでもいいことだけど。

 

 今日はのんびりと読書をしていた。『レ・ミゼラブル』を読んでいるんだけど、なかなか読み進まないまま返却期限が目前に迫っている。

 上院議員と司教とのやり取りで上院議員が「私は私の哲学を持っている」~「私は虚無である。私は自ら元老院議員虚無伯と呼ぶ。生まれいずる前に私は存在していたか。否。死後に私は存在するであろうか。否。私は何物であるか。有機的に凝結した僅かの塵である。この地上において何をなすべきか。それは選択を要する。すなわち、苦しむべきかもしくは楽しむべきか。ところで、苦しみは私をどこへ導くであろうか。虚無へである。しかし既に苦しんだ後にである。楽しみは私をどこへ導くであろうか。虚無へである。しかし既に楽しんだ後にである。私の選択は既に決まっているのだ。~~」と言い切る。

 司教をして「~~。あなた方立派な方々は、お言葉のとおりに、御自身のそして御自身のための一の哲学を持っていられる。美妙で、精巧で、富者ばかりが手にすることが出来、いかなるものにもよくきくソースであって、人生の快楽にうまく味をつける哲学です。その哲学は地中深くから取られ、特別な探求者によって掘り出されたものです。しかしあなたはいい方です。善良なる神の信仰は民衆の哲学であることが差し支えないと言われる、あたかも鵞鳥の栗料理は貧しい者にとっては七面鳥の松露料理だとでも言うように。」と言わせる。

 このやりとりを眺めてコンテンツの大衆化が招く利用者のモラルの低下や価値観の低俗化を思い浮かべていた。言語や哲学そのものにしたってそれが言える。だからおれは低俗な概念にはそれがまかり通るのを防ぐために名前を与えるべきではないと思っているんだけど、インターネットでは「○○に名前を付けたいんだけど」「○○ってジャンル作ろうぜ」みたいなのを一つの楽しみ方としている人間たちもいて、何の危機感もなくどんどんと下等な世界が広がっていく。本当に嫌悪感しかない。オタクのそういう分類を好む傾向は、仲間内だけでやっているなら誰も迷惑はしないのに、インターネットという広い場においては世界に振りまかれる害悪でしかない。

 

 早く有無を言わさず叩き潰せるようになりたい。